奄美群島の中心都市・名瀬はおもしろい

奄美大島のいいところがぎゅっと詰まった街が名瀬。わずかな平地に、所狭しと家やビルが立ち並んでいて、人口的には鹿児島県内には、鹿児島市以外にも大きな街は存在するが、集中した具合は名瀬が一番であり、どこか都会に映る。まさに都市機能が集中した街「コンパクトシティー」が名瀬だ。そんな魅力ある奄美の都会をまちあるき。

【名瀬市 距離:2.4km 所要時間30分】

 

①丸田南里の墓

丸田南里は、幕末期にイギリス商人のトーマス・グラバーに伴われて渡航し、明治維新後の奄美に帰郷したといわれている人物である。その後、砂糖の自由売買のための運動である「勝手世騒動」に身を投じ、奄美開放の歴史に足跡を残している。明治になってからも江戸時代の慣習から脱却するのは大変だったようだ。墓は共同墓地のなかにひっそりとたたずんでいる。

②観音寺跡

この寺は薩摩藩の代官や役人などが信仰する寺として、江戸時代には当時代官所のあった赤木名や大熊にあったが、後期にこの地へ移設されてきた。残念ながら明治2(1869)年の廃仏毀釈によってほとんどが失われてしまった。現在は墓地だけがひっそりと残されているだけだが、市街地にあるだけでも貴重ともいえる。また、赤木名観音寺は島唄に歌われたりしている。

③高千穂神社

観音寺がなくなり、地域の信仰のよりどころが失われたことから、創建されたのが高千穂神社。現在は寺跡近くの高台にあるが、それは昭和5(1930)年になってからのことで、以前は別の場所にあった。参道などに点在する琉球松も印象的だが、ここから眺める名瀬市街地もなかなかにいい。境内には、名瀬の産業振興に貢献した豊島栄翁の胸像や、庶民金融に尽力した森百太郎翁の胸像、大島紬の育ての親ともいわれる丸田兼義翁の頌徳碑もある。高千穂神社は名瀬の人々の心の拠り所であり、奄美を愛し尽くした人々の思いにもふれることのできる場所でもあるようだ。

④屋仁川通り

奄美群島最大の繁華街である屋仁川通りは、昼間に歩いても高揚感は生まれないが、夜になってやさしいネオンの灯りを目にすると、わくわくしてくる。もともと通りには、その名前のごとく川が流れていて、それに沿って飲食店が立ち並び発展してきたという。地元の方々は親しみをこめて「やんご」と呼んでいる。やんごが繁華街として出発したのは明治期とされていて、まさに歴史ある繁華街といえるだろう。

⑤みかた公園

この公園の敷地は、昭和30(1955)年に名瀬市と合併した三方村の役場があった場所にあたる。三方村の領域が、小宿、大熊、浦上などの隣接していない飛び地のような範囲であったために、役場だけは、買い物などで頻繁に訪れる名瀬の商店街付近がよかろうということで、この地に定められたという。役場の建物は現在ないが、公園の名前が当時をしのばせてくれる。

⑥永田橋・末広市場

さて名瀬の活気と文化を象徴するような市場が、現在でも街なかでちゃんと営業している。永田橋・末広市場である。商業圏の変化に伴い、どこも商店街や市場は大変と言われているが、名瀬のように市場に存在感があると安心する。かつては目の前を流れる永田川上で商売していたのを、昭和42(1967)年に新しく建物を建造し直して以来、店舗数は減少したらしいが、現在に至るまで人々の胃袋を支えている。また地元のラジオ局が市場内で放送するなど奄美らしさを満喫できる場所といえそうだ。

 

 

 

 

 

 

東川隆太郎 プロフィール

【職歴・略歴】

東川隆太郎NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。

2015-11-25

カテゴリ:いっぺこっぺさるこうかごしま

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