よくある質問

長島の中心地・鷹巣を歩いてみよう

 

戦国期までは天草領であった長島は、鹿児島本土とは少し異なる発展と文化を育んできました。島の周辺は起伏のある入江が連続していて、風景としても美しく訪れる人々を魅了しています。また養殖ブリや赤土のじゃがいもが特産品として幅広く知られています。江戸時代からは薩摩藩の直轄領として長島郷を置かれ、その中心は鷹巣でした。今回は、長島の中心地をご紹介します。

① 地頭仮屋跡

長島郷ははじめ出水郷の一部であったが、明暦3(1657)年に分離することになり、この地に地頭仮屋が置かれることになった。他に薩摩藩領では、この地頭仮屋を中心にして麓と呼ばれる武士の居住空間が誕生したが、長島郷は川床や城川内などに分散して居住する体制を敷いていた。昭和23年からは、長島高校の東長島分校として、後に家庭科などを中心とした校舎が機能した。しかし、昭和48年に長島高校として統合されることになり、その跡地には東町役場が建てられた。

② 高羅城跡

この城は天文6(1537)年に築かれたもので、周囲からすると小高い丘陵になっている。この城は長島氏のものであったが、その居城は、堂崎城が中心で高羅城は支城のひとつだった。永禄8(1565)年に島津氏の勢力下となってからは、肥後国との境の城として機能していた。本丸は鷹巣中学校で、恵比須像が祭られている場所には、射場があった。城の範囲は広く、堀跡を思わせる溜池もあったり、段差のある地形からも当時の様子を読み解くことができる。

③ 八幡神社

創建年代は不明だが、天正4(1574)年に長島氏を制した出水に勢力のあった島津義虎が、神社の周辺にあった高羅城や地域の守護神としたのが始まりとされている。野田にある箱崎八幡神社から御祭神を勧請し、その際には鰐口が島津義虎によって奉納されたという。昭和3年に奉納された石造りの鳥居が目印。島津義虎が、長島に勢力を広げるきっかけをつくったのは親族である島津忠兼だが、謀反の嫌疑をかけられて、義虎に殺害されてしまった。

④ 常念寺跡

開山は寛文8(1668)年に快意和尚とされている。宗派は真言宗で鹿児島大乗院(現在の清水中学校)の末寺とされている。建立には19代島津光久が関わったともされている。明治2年の廃仏毀釈によって廃寺となったが、その後となる昭和33年に東町役場が建てられている。島津光久は、この長島を訪れていて、鷹巣や伊唐島に滞在した記録がある。

⑤ 十五社神社

素朴な雰囲気に包まれた神社で、菅牟田十五社神社とも呼ばれている。御祭神は、豊受比売命と十五社大明神。十五社神社は長島が天草領であった名残りで、阿蘇の神様が祭られている。創建年代は不明だが、昔地域の農作物の被害が甚だしく、悪疫が流行した。そのため地域の鎮護と守護を求めて建立されたという。境内に並ぶ木々や趣きのある社殿から地域の人々によって大切にされてきたことが理解できる。

 

 

 

 

 

 

東川隆太郎 プロフィール

【職歴・略歴】

東川隆太郎NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。

2017-03-24

カテゴリ:いっぺこっぺさるこうかごしま

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