美しい島・喜界島の湾を歩く
喜界島は、鹿児島県内の離島では一番東に位置し、標高200メートルのどの百之台という台地以外は、平坦な地勢をしている。江戸時代までは琉球王国に属しており、平安末期には平家の落人らが来島したという伝説が数多く残る。薩摩藩の支配下に置かれると江戸中期以降はサトウキビの生産を強いられた。現在もサトウキビの生産は継続しており、白ごまと並んで島の特産品である。そんな島の中心地が湾である。今回は、島の経済や行政を支える湾の集落を中心にご紹介したい。
① 金毘羅神社(御殿の鼻)
湾港を見下ろす高台に金毘羅神社が建立されている。ここは高さが約2メートルほどの土手状になっていて、海の守護神として信仰を集めている。かつて、このあたりは御殿の鼻と呼ばれ、島の「ノロ」が祭事を行う場所でもあった。また、文正元(1466)年に琉球王国が喜界島を攻めて来た際には、この場所に島の軍勢が集結して、琉球軍を迎え撃ったとされている。
② 仮屋の跡
江戸時代になって、薩摩藩の支配下におかれると、鹿児島城下から役人が派遣されてきた島を統治するようになった。大島代官から分かれて喜界島代官が設置されたのは元禄6(1693)年のことで、明治8(1875)年に代官所が廃止されるまで、ここに役人が勤務した。代官の数は99人にのぼるという。役所には本仮屋と下仮屋と東仮屋と西仮屋があったという。
③ 村田新八修養之地碑
村田新八は、明治10(1877)年の西南戦争の際に西郷隆盛とともに城山の戦いで亡くなった人物。また、幕末期には西郷らとともに数々の戦で活躍し、明治政府では海外視察に出かけるなど長生きしていたら、もっと名前を残せたであろう貴重な人物でもある。喜界島には、文久2(1862)年7月2日に島津久光の命によって流罪となり、訪れている。新八は流罪ではあったが、島での生活は充実していて、子弟教育などを行い島の青年らの指導にもあたった。元治元(1864)年に沖永良部島に流されていた西郷隆盛が赦免されると、同じく村田新八も藩政に復帰することになる。
④ 高千穂神社
当社は島の安寧幸福を祈願するために、明治3(1870)年に鹿児島知藩事の許可を得て創建されたもの。御祭神はニニギノミコトで2月4日と8月15日が祭日となっている。高台には立派な社殿が建立されて、初詣などでは多くの人々でにぎわう。
⑤ 代官合祀之墓
湾集落には、薩摩藩の支配下において喜界島代官所が置かれたが、その代官所に赴任してきた薩摩藩の役人も喜界島で亡くなった人々もいる。代官だと3人、横目が8人、附役が10人、目付が3人、この地で亡くなっており、ここに合祀して埋葬されているという。
⑥ 俊寛の墓
家々が集中する湾の集落から少し離れた場所にある。墓は高さ58センチほどの石柱で、残念ながら刻字されているが判読が難しい状態になっている。この地域は「坊主前」とも呼ばれていて、昔は砂丘地帯で薄暗い場所であったという。この墓は、平家打倒の企てから平清盛によって配流された京都の僧・俊寛のものといわれている。昭和49(1976)年に墓地整理した際に、この墓の下から人骨が出てきて鑑定したところ、木曽地方に産するクロベ材による木棺に入っていたことがわかり、身分の高い中央の人間のものと推測された。
東川隆太郎 プロフィール
【職歴・略歴】
NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。