加治木のまちあるき 島津義弘ゆかりの地を訪ねて
加治木の歴史を語る上ではずすことのできない人物といえば、関ヶ原の戦いにおいて敵中突破を行った島津義弘である。戦国期の戦における活躍が全国的にも知られる名将であり、その彼が晩年に居住していた地域が加治木である。それだけに義弘にちなんだ史跡が多い。今回は、義弘ゆかりの地を中心にまち歩きしよう。
①精矛神社
精矛神社は、御祭神が島津義弘で、春になると美しく咲きそろう桜並木が印象的な神社である。最初、明治2(1869)年に終焉の地である仮屋町に勧請されたが、没後300年祭にあたる大正7(1917)年に現在地に造営されることになった。境内には、義弘が朝鮮の役に参戦した際、現地から持参してきた手水鉢や石臼が置かれている。
②屋形跡
義弘の終焉の地となったのは現在の仮屋町。加治木高校のある一帯が屋形のあった場所である。黄色くて模様のような穴が無数にあるのが特徴の加治木石を使った石垣が当時を偲ばせてくれる。護国神社や石碑などが並んでいて歴史を感じさせてくれる。
③県庁の記念碑
柁城小学校の敷地の屋形があった場所。ここも石垣が当時を偲ばせてくれる。それだけでなく、西南戦争の際、鹿児島市街地が戦場になったことから、一時期県庁がこの地におかれることになった。そのことを示す記念碑がやはり屋形の一部であった小学校のプールサイドにひっそりと建っている。屋形は慶長12(1607)年に、義弘が易学者である江夏友賢に拠点とすべき場所の選定を依頼し、この地に決定された。「東の丸」や「西の丸」などが築かれ、今の小学校は「御対面所」と呼ばれる場所にあたる。
④毓英館跡
加治木を江戸時代に治めていたのは島津本家の分家にあたる加治木島津家。天明4(1784)年に加治木島津家第6代の久微によって創設された毓英館跡がある。ここは加治木における学校の始まりで、長崎から先生を招聘し、人材育成に努めた。
⑤御里窯跡
義弘は茶の湯を千利休に師事するほどの茶人であった。それだけに焼物にも造詣が深い。御里窯と呼ばれる古窯跡もある。この窯は、義弘が使用する茶碗などを焼くお庭窯である。朝鮮の役の際に連行してきた陶工のひとり、金海によって築かれ、朝鮮の陶法に瀬戸の手法を導入した技術で茶道具を中心に焼かれた。/p>
⑥春日神社
加治木の中心地である網掛川へと続いている。その川沿いに下ってゆくと、雰囲気の素晴らしい春日神社に辿り着く。加治木では最も古い神社で、平安時代に藤原氏の氏神である春日大明神を、当時の郡司であった大蔵氏が勧請したことに始まる。江戸時代に入ると、島津家代々の当主が社殿の改築などに関わり、時代を越えて信仰されている。もちろん島津義弘も参詣に訪れている。
東川隆太郎 プロフィール
【職歴・略歴】
NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。