南大隅町の中心・根占のまちを楽しもう
雄川が中心を流れる根占は大隅半島の南端地域では一番人口が密集した町である。南大隅高校や神山小学校といった教育機関だけでなく、雄川の河口には薩摩半島の山川港との定期航路が開設されている根占港といった交通機関もある。こうした町はかつて戦国期まで、大隅半島南端地域に勢力のあった禰寝氏の拠点でもあり、ゆかりの神社や寺院も点在している。今回は、こうした実は港町でもあった根占のまちなかを地域ならではの物語に出会いながら訪ねてみたい。
①南洲翁宿所跡
明治10(1877)年、西郷隆盛はこの根占の地において私学校徒決起の知らせを聞き、この地から鹿児島に引き返している。それまでの時間を過ごしていたのがこの家である。西郷隆盛は狩りが好きで、大隅地方南部滞在中はこの平瀬宅を常宿としていた。現在も西郷が宿泊した当時の家屋、愛用の火鉢、きゅうす、石風呂、石の手水鉢が残る。また室内には西郷隆盛が誤って銃を暴発させてしまい天井に穴をあけてしまった跡も残されている。周辺の街並みも素敵である。
②根占書籍館
広く村民が利用できる施設をという目的のもと、地元出身の磯長得三氏を中心とした人々の尽力によって、明治16(1883)年、なんと九州で初めて、全国でも4番目に設立された図書館。ちなみに磯長家は、英国留学生のひとりである長沢鼎を輩出した家柄でもある。図書館は今でも現役で町民に親しまれている。また、図書館入口付近には同じく英国留学生のひとりである中村博愛の誕生地の碑もある。後に外交官として活躍した人物でもある。
③南蛮楠
大隅半島南端の地域では最も大きい雄川の河口はかつて貿易港として栄え、特に禰寝氏16代禰寝重長は、中国や琉球との貿易に力を入れていた。その川沿いにある大きなクスには、港に出入りする外国船が艫綱をつないだと伝えられている。また、町内を代表する祭事のひとつにドラゴンボートレースがある。この行事はこの南蛮楠の前の雄川で開催されている。また雄川を少し上流に行くと、秘境的な光景を楽しむことができる雄川の滝がある。
④若宮神社
入口にある鳥居と仁王像が目印の旧村社。御祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫。創建年代はわからないが、延慶2(1309)年の頃にはすでにあったと思われる。長い階段を上った小高い丘の上に社殿があり、根占の町の眺望も楽しめる。周辺地域は、江戸時代の根占郷の麓と呼ばれる武家屋敷であり、若宮神社の前の通りから神山小学校、さらに南大隅町役場周辺まで、その雰囲気がよく残っている。ちなみに神山小学校の位置が、地頭仮屋と呼ばれる行政中心の機関があったところでもある。
⑤園林寺跡
応永24(1417)年創建とも伝えられる古い寺院。現在の南大隅町、錦江町域における曹洞宗の中心的存在の寺として栄えたが明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となった。そのために墓地の一部と往時の勢いを伝えてくれる仁王像が静かに残されている。禰寝氏にゆかりが深く、文禄4(1595)年に禰寝氏が吉利へ移封した際も、吉利へ移っている。その禰寝氏は吉利に移封後の江戸時代中頃に、姓を小松に変えた。そのため吉利の園林寺跡の墓地には幕末期に活躍した名家老小松帯刀の墓などがある。
⑥諏訪神社
並列した鳥居が目印となる旧郷社。境内入口に鳥居といっしょに並ぶ石灯篭も立派で根占郷の繁栄を象徴するかのようでもある。鳥居が並列されているには理由があり、御祭神は上宮が建御名方命、下宮が事代主命と社殿はひとつであるが、宮がふたつあるから。かつて地域に君臨していた禰寝氏はもとより現在根占地域の守護神として信仰されている。社殿裏には南端地域らしいヘゴの木などがあり、南にいることを意識させてくれる。神社のすぐ近くには正安の板碑がある。これはかつてあった宝蔵院という寺跡にあった板碑で正安3(1301)年に建立されている。
東川隆太郎 プロフィール
【職歴・略歴】
NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。