種子島氏の城下町・西之表を歩く
鉄砲伝来で有名な種子島。この島を治めていたのが種子島氏で、行政の中心が西之表だった。現在も種子島の玄関口であるが、この港周辺には様々な歴史物語が伝わっている。今回は港周辺も歩きながら西之表を満喫してほしい。
①八坂神社
八坂神社は、明治6(1873)年にこの地域の人々によって建立されたものだが、もともとは、慈遠寺という寺院があった。慈遠寺の歴史は古く、創建は大同4(809)年という。ちなみに種子島は法華宗の島といわれ、慈遠寺は長亨2(1488)年に法華宗寺院になっている。僧坊だけでも数十あったといわれる巨大寺院では、鉄砲が伝来した際、船の乗組員が、船の修繕が終わるまでこの地に滞在したという。
②松寿院築港
幕末期の文久2(1862)年に竣工した年期の入った岸岐である。松寿院とは、島津斉彬の叔母にあたり、当時の種子島の領主、23代種子島久道の妻でもある。久道が早くに亡くなったことから、種子島の産業振興や改革に力を注ぎ、多くの事業を成し遂げている。そのひとつの港の完成は、船の停泊を容易にしてくれたという。
③栖林神社
栖林(せいりん)神社で、祭神は19代種子島島主久基である。種子島久基は晩年の号を「栖林」といい、江戸時代初期に、製塩、製鉄といった種子島には欠かすことのできない殖産興業に尽力した人物である。元禄11(1698)年には、琉球より甘藷を移入し、その栽培も行っている。この神社が別名「カライモ神社」と呼ばれる由縁はそこにある。この神社には弓場があり、ここでは「大的始め」と呼ばれる伝統行事が行われる。
④種子島家の墓地
種子島家の当主やその家族たちの墓地は「御拝塔」とも呼ばれている。そのなかで、ひっそりと葬られている人物に、カタリナ永俊尼がある。永俊尼は、18代島津家久の義母にあたり、キリシタンであった。徳川幕府がキリスト教を禁止しために、寛永11(1634)年に種子島に配流されてきた。
⑤日典寺
日典寺がある。寺の名前は、種子島に法華宗を伝えた日典上人にちなんだものである。日典上人は、寛正2(1461)年に種子島に帰島し布教に努めたが、それまで律宗であった島の人々の激しい反発に遭い、寺の下の海岸で生き埋めにされることになった。それでもお題目を唱え続けたという。その意志は、二年後に来島した日良に受け継がれ、ついに種子島は、法華宗に改宗することになる。境内には、大正7年に改築された建物でもあり、日典の遺骨が納められた日典廟がある。
⑥王之山神社
神社のある集落の塰泊は、平氏に擁されて西国へとやって来た安徳天皇にちなんだものである。伝説によると安徳天皇は壇ノ浦の戦い後に、種子島のこの地に辿り着いた。当時の島司は手厚くもてなし、より安全な硫黄島行きを提案したという。つまり、安徳天皇はこの地から硫黄島へ旅立っていったことになる。このため塰泊には、安徳天皇を御祭神とした王之山神社が建立された。
東川隆太郎 プロフィール
【職歴・略歴】
NPO法人まちづくり地域フォーラム・かごしま探検の会代表理事。「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
主なテーマは、地域再発見やツーリズム、さらに商店街やムラの活性化など。講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。1972年鹿児島市生まれ。鹿児島大学理学部地学科卒。